2021年9月10日金曜日

YANN TOMITA : RESUMES FOR A.S.L. REPORT "SPACEWAR!" AT BLUE NOTE TOKYO, FRIDAY 24.9.2021

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9月24日(金)BLUE NOTE 東京に於いて、『ヤン富田:A.S.L. REPORT -  "SPACEWAR !"』公演を開催します。世界初のデジタル・ビデオ・ゲーム「スペースウォー!」(1961) から現在までのゲームを俯瞰しつつ、新たなサウンドを提示する内容です。


本来、「スペースウォー!」公演は2020年春の開催予定でした。スペース・ウォーがウィルスとの戦いを暗示していたかのように、その影響から中止となりました。延期期間中はビデオゲームの調査に勤しみ、これまでに10000近いゲームを試しました。今回の公演では厳選したゲームの幾つかをパフォーマンスに使用します。


以下、公演のレジュメとなります。概要以外の内容も含みます。


                               9/2021   ヤン富田

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DEC PDP-1 (デジタル・イクイップメント・コーポレーション社プログラム・データ・プロセッサー1番)は、1959年11月に発表された世界初のミニ・コンピュータです。ハッカー文化の起源となった重要なコンピュータで、導入されたMIT(マサチューセッツ工科大学) では歴史上最初のデジタル・コンピュータ・ゲーム「スペースウォー!」をプレイするためのオリジナル・ハードウェアとなりました。


1961年に「スペースウォー!」は、MITの学生 スティーブ・ラッセル (Steve Russell/1937-) とマーティン・グレイツ、ウエイン・ウイッタネンによって考案されました。これは、1962年にスティーブ・ラッセル、ピーター・サムソン、ダン・エドワーズ、マーティン・グレイツ、アラン・コトック、スティーブ・パイナー、ロバートA.サンダースによってPDP-1で最初に実現され、この集団がハッカー文化の起源となりました。


PDP-1は、世界初の商用インタラクティブ・コンピュータであり、企業や研究機関がこれまで以上に多くのコンピューティング・パワーにアクセスできるようになりました。


PDP-1のオペレーティングシステムは、複数のユーザーが同時にコンピュータを共有できるようにした最初のもので、これは「スペースウォー!」をプレイするのに最適でした。「スペースウォー!」は、光子魚雷を発射する戦う宇宙船を含む2人用のゲームで、各プレイヤーは太陽の引力を避けながら、敵にミサイルを発射することで宇宙船を操縦し、得点することができます。

コンピュータを使用する時間は、分刻みで非常に高価だった60年代半ばまでに、「スペースウォー!」は米国内のほぼすべての研究用コンピュータで見つかりました。



参考文献:The origin of Spacewar 

J. M. Graetz This article is reprinted from the August, 1981 issue of Creative Computing magazine. 


The History of Spacewar: The First Computer Game In1962, Steve Russell invented Spacewar By Mary Bellis



Spacewar! は、1961年にMartin Graetz、Stephen Russell、Wayne Wiitanenの3人によって考案されました。

1962年にStephen Russell、Peter Samson、Dan Edwards、Martin GraetzとAlan Kotok、Steve Piner、Robert A SaundersによってPDP-1で初めて実現されたものです。

Spacewar! はパブリック・ドメインですが、このクレジット・パラグラフはプログラムのすべての配布バージョンに添えなければなりません。

ゲーム開始位置                                                       軌道に入り反対方向に回転して敵に魚雷を撃ちます。


ワープ                                                         爆発


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1960年代初頭にリリースされた黎明期のコンピュータ・ミュージック関連のレコード:


Music From Mathematics  Bell Telephone Laboratories, Inc.122227 10” Box 1961 US

Synthesized Speech    Bell Telephone Laboratories, Inc.  7” Flexi-disc  1961©  US

Computer Speech   Bell Telephone Laboratories, Inc.  7” inch   1963  US

ベル・ラボの研究員、ピアース(J. R. Pierce/1910-2002)、マックス・マシューズ (Max Mathews/1926-2011)、他によるコンピュータによって生成された音源集。


Philips Technical Review Vol.24 (1962/63), No.4/5 “Listening in to PASCAL”  1963  Netherlands

フィリップス社の研究リポート誌に添付されていたレコード。1970年に発表されたプログラミング言語、PASCALの研究から遡る1962/3年における成果。モールス信号に区切られた4つのトラックが収録されています。



Music On The PDP-1X   PPDX Records 450  LP  US

DEC PDP-1 から生成された、バッハ、モーツァルト等の調性音楽のアルバム。作者、制作年、不明ですが、60年代初頭のPDP-1 をとりまくハッカーによってプログラムされたといわれています。



AN/FSQ-7

1957年にDEC を創業した、ケネス・オルセン(Kenneth Olsen/1926-2011) とハーラン・アンダーセン(Harlan Anderson/1929-2019) は、それ以前にはリンカーン研究所でAN/FSQ-7 マシンの開発に参加していました。

55000本の真空管を使用し床面積2000平方メートル、重量は275トンと史上最大のコンピュータで、50年代終盤からソ連軍原爆搭載爆撃機を発見し要撃するための自動化されたコンピュータシステムでした。


写真のモニター部分は制御端末になります。


画像 上:DEC PDP-6

PDPシリーズは1972年に発売されたPDP-16までの16モデルがリリースされました。

画像 下:Gordon Mumma - Electronic Music Of Theatre And Public Activity   New World 80632-2  CD  2005  US

1968年、MIT人工知能研究所(AI ラボ) でPDP-6用の実験音楽ソフトウェアを開発していた スティーブン・スモリアー(Steve Smoliar)と、実験音楽のゴードン・ムンマ (Gordon Mumma/1935-) が共作した調性音楽でないコンピュータ・ミュージック “Conspiracy 8”(1970) 所収。


“Conspiracy 8” は、2005年の編集盤に於いて初出された作品です。MIT AI ラボにて可笑しな音を出し続けるコンピュータ・サウンドと、それに対峙し大笑いして応えるリスナー達が醸し出す雰囲気とが相まって、黎明期のコンピュータによる実験音楽の稀少な記録となったといえます。

この音源に初めて接した時に拙作 ”Laughter Robot In Silicon Valley” (1998年発表)を思い出しました。これはシリコンバレーのとある会場で、笑うことのできるロボットのデモンストレーションを伝えるというものです。制作当時 (96年)ゲーム機で使用されたデジタル・チップのサウンド研究から生まれた作品です。(Music For Living Sound 所収)



Yann Tomita - Music For Living Sound   

For Life Records FLCF 3715   CDx3 CD-ROMx1 Box Set  1998  Japan

Yann Tomita - Music For Living Sound   

For Life Records FLCF 3715   CDx3 CD-ROMx1 Box Set  1998  Japan

Music For Living Sound は、CDx3、CD-ROM x1、解説書からなるボックスセットで、アートワークは自分でやり、五線譜を図形楽譜としたアルバム・カバー (1)~(3) に、23曲集録しました。その内、調性感のある楽曲は7曲です。他は電子音楽、実験音楽、エンバイロメンタル・サウンド、そして分類できない音楽からの集成です。また制作会社に依頼するのでなく、一から覚えた簡略化されたコンピュータ言語 "ringo" を駆使して半年に渡り(4) のCD-ROMを制作しました。CD-ROMは CDx3の内容と連動しており、作品に触れる際に楽しみかたの幅が広がればと考えました。


この様な作品を商業音楽ひいては音楽産業のど真ん中のフォーライフ・レコード(当時レーベルメイトに坂本龍一さんやテイ・トーワさんがいた)より大々的なプロモーションのもとに発売されました。同時に青山ギャラリー360°で個展を開催しました。


アルバムの録音は、当時羽田空港周辺の運河沿いにあったA.S.ラボから、東京にある幾つかのスタジオ、ニューヨークのユニーク・サウンド・スタジオ、コロンビア/プリンストン大学電子音楽スタジオ、オハイオ州コロンバスにある「ワイルド」人工公園、ハワイのホノルルでのスタジオ・セッションと広範囲に渡り、ヒップホップDJのグランドマスター・フラッシュ(Joseph Saddler aka Grandmaster Flash/1958-) ) 、マーティン・デニー・グループのオーギー・コロン(Augie Colon/1927-2004) 、音響建築のビル&マリー・ビュッケン(Bill Buchen/1949- & Mary Buchen/1948-) 、そして DOOPEES 他の参加がありました。CD-ROM では楽曲に関連する動画を交えた解説や、このメディアに特化したインタラクティブな作品を収録しました。


ニューヨークでビル&マリー夫妻を訪問した際に、チベットの山奥に物資運搬用のヤクの群れが移動する際、首についたカウベル音が谷間にこだまして、すごい音響となるポイントが1箇所あることを知らされ、頭の中で天上の調べが鳴り始めました。帰国後すぐにスタッフとプランを練りましたが、いくつか問題があるのでした。ポイントは標高約3000m、ヤクの群れがポイントを通過しない場合野宿となります。夜は山賊に襲われる危険性があるため、暗くなる前に出発地点まで戻らなければなりません。山登りなどしたことのない素人なので、高山病対策も必要とのことで、トレーニングしてからの入山になります。そこで何かもっと別な方法はないものかと考えて、だったらヘリで高地にある飛行場に着き、そこから3時間の距離を下山しポイントに到着するというのはどうだろう?ということになりました。しかしそれでも夜営の可能性があるということで断念したのですが、ヤクに付いてるカウベルは全て飼い主の自家製で、それぞれ響も音程も違うから、それらが群れをなして山間を移動するとそれらが山々にこだまし、その景観も相まって、それはそれは素晴らしい音響なのだそうです。ゲームのようなお話です。



Silicon Valley : A 100 Years Reneissance/シリコンバレーの百年   字幕監修:長野弘子 DVD 2008  

1891年、米カリフォルニア州パロアルト市に鉄道王リーランド・スタンフォード(Leland Stanford/1824-1893) がスタンフォード大学を開校しました。大学はその後シリコンバレー発展の中心的な役割を果たしました。出演者にビデオ・ゲームの父と称されるアタリ社創立者ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell/1943-)、ロックバンド、グレートフルデッドのジェリー・ガルシア(Jerry Garcia/1942-1995)、他、IT企業創立者が多数出演します。


Tellus Audio Cassette Magazine #22 - False Phonemes   1988  US

「偽りの音素」と題されたサイバネティックの肉体化への抽象化。コンピュータによって生成された言語を使用した作品集。ポール・ランスキー、ジョン・ケージ、ラリー・ウエンド、他、全11アーティスト集録。傑作 ポール・デマリニスの「マインド・パワー」所収。


ローリング・ストーン誌1972年12月号

世界初のコンピュータ・ビデオ・ゲーム「スペースウォー!」による eスポーツ の起源となる大会「FIRST INTERGALACTIC SPACEWAR OLYNPICS」から、コンピュータハッカーを紹介するスチュワート・ブランドによる記事。

右の人物は ブルース・バウムガルト(Bruce Baumgard):ヒッピー、ハッカー、コンピュータ・サイエンティスト、そして世界初のeスポーツ・チャンピオン



II Cybernetic Frontiers by Stewart Brand   Random House and The Bookworks  1974

スチュワート・ブランド(Stewart Brand/1938-)によるコンピュータの普及が文化に与える影響についての見解書。1972年『ローリング・ストーン』誌に掲載された世界初のデジタル・ビデオ・ゲーム「スペースウォー!」のゲーム大会と、それにまつわるコンピュータ・ハッカーに関する記事。これは、パーソナル・コンピュータをカウンター・カルチャーの一部として取り上げるきっかけとなりました。印刷物で「パーソナル・コンピュータ」という用語が最初に使用され、またコンピュータ・ハッカーについて報告した最初の本となりました。


コンピュータ・サイエンス誌「bit」創刊号  共立出版  1969.3


朝日ジャーナル1969年1月5日号 Vol.11 No.1:

キャプションから:電子ヒッピー (CTG:コンピューター・テクニック・グループ)IBM計算センターで コンピューターは数億円もするので 彼らは 学校・会社の備品をゲリラ的に使用する


CTGは日本のコンピュータ・アートの先駆となるグループで、東大大学院生の槌屋治紀(1943-/画像左)と多摩美術大学学生の幸村真左男 (1943-/画像右)によって67年に結成されました。その後グループは11名に増えましたが1969年11月に解体しました。


キャプション左から:

“Kennedy in a dog”というグループの作品と 週刊誌の見開きヌード切り抜きが同居「マンションじゃなくロッカーだ」の声もある 正面”解放戦線旗”はグループの宝 港区芝のマンションの一室 入り口近く ゲバラへの指向「だがどんどん隔たりがでてくる」


キャプションにある "解放戦線旗”とは、南ベトナム解放民族戦線旗のこと。槌屋治紀は当時の発言などから全共闘系のデモに参加していたと推察されます。東大大学院生などで組織する全学闘争連合ー全闘連には、のちの全学共闘会議代表となる山本義隆がいました。


同誌の頁をめくっていたらこんな記事も掲載されていたので抜粋します。

(朝日ジャーナル1969年1月5日号 Vol.11 No.1:99頁~100頁より)


社会観察:…社会観察子放談会…「他ならぬ日常性の中に」


評論家B:ぼくは、学生のデモのスタイルーヘルメットをかぶり、手ぬぐいをマスクにし、角材を手にするというスタイルに対してはやや批判を持っている。それは道徳的に暴力はいかんということではない。人間というのはもし反逆するんだったら、どこかの時点で必ず暴力との接点を持つと思う。どんな非暴力主義者でも。だけどもぼくが全学連のスタイルに批判的なのは、どんな場合でもああゆうかっこうをすればいいんだという、一種の思考のマンネリズムみたいなものがあるのではないかと思うからだ。

政治学者:造反の基本的な本質というのは、社会体制とか、既存のものに対する変革、謀反なのだが、それにはまず自分自身に対する謀反が要求される。かれらが最初にヘルメットをかぶり、角材を持った段階はまさに自分自身をかえるという、造反の根元にたったと思う。だけど、それ以降、一度壁は破ったけれども、今度は別の形の自分のワクをつくったって感じだな。基本的にいって、造反は絶えざる緊張の元に、スタイルとか、運動とか、そうゆうもの全体を貫徹しなければならない。

評論家B:日本では造反というのはかならずすぐスタイルを作り出す。それこそ予備校の学生までがヘルメットをかぶり出す。それでヘルメットは売れるわけさ。あの材料をつくって流してるのは、彼らのいう独占資本の大企業だそうじゃないか。そこらへんがもうかっているわけよ。朝の電車に乗ると、サラリーマンはみんなグレーの背広にネクタイで、いやになっちゃうね。そうすると、例えばミリタリー・ルックみたいのが出てきて、そうゆう潜在的不満を吸収し、ある場合には潜在的不満を作り出しさえして、商業ペースに乗せてゆくのだな。例えば二年ぐらい前にアメリカで、サンフランシスコのヒッピー発祥の地なんか歩いていると、裾広がりのズボン、昔のチャップリン見たいのが歩いていた。それが最近日本のデパートで売っているわけよ。現代における造反で、そうゆうふうに吸収されない造反を作り出すのはかなり難しいね。

法律学者:マスプロが造反をかすめとってるんだよ。

評論家A:風俗化した造反だな。日本で今、末広がりのズボンを履いている連中が、一体、何かに造反しているのかね? (以上、抜粋)


『知性の叛乱』山本義隆 著 神無書房 1969  『さよなら快傑黒頭巾』庄司薫 著 中央公論 1969


槌屋治紀氏の流れから69年のお話を少し記しておきます。

どちらも高校2年生の時(1969年) に出版されて読んだ本です。今思うと当時はこの2冊のバランスの上に立っていたような感じです。東大全共闘代表の山本義隆 (1941-) 氏は私より11歳年上で、「さよなら快傑黒頭巾」劇中の主人公・薫クンは2年先輩になります。小説を書いた庄司薫というのはペンネームで本名は福田章二(1937-)です。福田氏は山本氏よりも4歳年上で両氏は東大で学びました。福田氏は丸山眞男(1914-1996) のお弟子さんともいえる人で、シリーズ1作目の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969刊) で、薫が兄(東大生)と一緒にゼミの教授と飲みに行った時のあれこれのモデルが丸山眞男と言われています。丸山は東大法学部教授で日本政治思想史を上梓した戦後日本民主主義に大きな影響を与えた政治学者でした。山本義隆は東大闘争の最中、丸山眞男をも猛烈に糾弾した人でもありました。


シリーズ1作目は映画化されました。紛争で東大入試中止 (1969) となった東大志望の薫クンが、今後いかに生きるかを描いた一日の出来事がストーリーです。今はもうない銀座旭屋書店で重要なシーンが撮影されました。そこから100m行った今もある喫茶室ウエストのリーフパイとか思い出したら食べたくなります。今では信じられませんが、その頃はデモの解散地点の東京駅八重洲口周辺から流れたデモ参加者が、ヘルメット片手に喫茶店にたくさんいるような光景があったんですよ。中にはヘルメットかぶったままの人もいたりして。1969年6月15日の日比谷野外音楽堂で行われた集会では、入りきれない参加者が公園いっぱいに溢れて、噴水前が集合地だった僕らのグループと、同じ場所で別のグループの先輩の方に声をかけられて、「白いヘルメットだと中核に間違われるから気をつけないと逮捕されるよ」と、本人は「浪人生のグループだしあまり目立っちゃいけないから灰色にしてるんだよね」と、灰色に白抜きで浪共闘 (浪人共闘会議)と書かれたヘルメットを被っていました。すごく話の面白い人で印象に残っています。この人のグループにのちの自民党代議士となる塩崎恭久(1950-)氏がいて、この場ですれ違っていたと思います。塩崎氏は教授(坂本龍一/1952-) と新宿高校の同窓で清水谷公園で行われる高校生の集会では教授ともすれ違っていたと思います。それから14年後、私は教授のアルバム『音楽図鑑』に呼ばれて演奏することになるんですね。


物事に対して、民青(日本共産党の学生組織)とかは「反対」っていう言い方をしてたけど、全共闘は「粉砕」って叫びます。反対は観念的だけど粉砕は物理的なので、つまり物事を物理的にも解決していこうという姿勢がヘルメットを被る動機につながります。最低限頭は守らなければならないので。そしてこの被るという行為は決意表明でもあるわけで、過激派という言われ方はまさにそこからきてると思います。

大きな地震が来たり災害があった時に、テレビのニュース番組でキャスターがスタジオにいるのにヘルメットかぶって放送したりするのも、都庁から災害用のユニホームで会見に臨んだりするのも現代の過激派で、そこに伝統として生かされているかのように思えて可笑しいです。


それで、6.15の集会はとにかく見たこともないような人数で、デモの先頭が日比谷公園を出発して国会を通過し霞ヶ関を抜けて新橋駅のガードをくぐって左折して銀座数寄屋橋を過ぎて解散地の東京駅八重洲口に到着した頃、まだ日比谷公園には出発できてない参加者がたくさんいました。集会では逮捕令状が出ていた山本義隆さんが万雷の拍手で迎えられて登壇すると、片手にマイクを1本づつ握りしめて2本のマイクで演説する姿が印象的で、1本よりも2本の方が訴えかけてくる感じが違うなと思いました。それから20年後、いとう(せいこう)くんがラップするヒップホップの集会で、黒ヘルに手ぬぐいでマスクといった衣装のいとうくんに、マイクは2本で両手に握りしめてとディレクションしたのでした。


当時党派には属さず自分の意思で行動を決定するノンセクトラジカルでした。その象徴が山本義隆さんで、東大闘争以降は駿台予備校の講師をされていましたが、在野の研究者として上梓した『磁力と重力の発見 1~3』(みすず書房 2003)で大佛次郎賞を受賞しました。その受賞記念講演があることを知って、マスコミに沈黙を守っていた方が人前に出るということなので、これはいかなくてはとバッファロードーターのムーグ山本くんを誘いました。ただ名字が一緒だからという理由で誘ったのですが、彼は一つ返事で「はい、お伴します」と言ってくれて、いい人です。当初往復ハガキで応募すれば入場パスを返信するとのことでしたが、日本全国から応募が来てしまい急遽抽選となり漏れてしまいました。 


シリーズ2作目の「さよなら快傑黒頭巾」には銀座数寄屋橋交差点角のソニービルで開催された、国際サイテックアート展「エレクトロマジカ 69」(銀座ソニービル 1969年4月26日~5月25日)を薫クンが日比谷高校の同窓生と観てきて、時間が止まってるような永遠ともいえる情景の中で感想を語り合うシーンが描かれます。「エレクトロマジカ69」は観に行かなかったけれど、銀座ソニービルといえば地下1階から昇る階段に、ステップを踏むと電子ピアノの音がするドレミファ階段っていうのがありました。階段を利用する人が登ったり降りたりすると、ポリフォニックで鳴ったと思います。最初は新鮮で行くのが楽しみだったけれど、いつの頃からか常設のドレミファ階段はなくなってました。目新しさがなくなって煩いだけになったんだと思います。


CTGは、1967年10月9日「シンポジューム 電子計算機と芸術」のパンフレットに、「コンピュータ・アートは新しい芸術である。」とあります。2年後の1969年11月には解体するのですが、槌屋治紀にとってコンピュータ・アートは目新しさも刺激もなくなって風化してしまったんだと思います。さっさと計算機による芸術はキッパリと辞めて、またアカデミアにのこることもせず、これは東大闘争を通じてアカデミアに幻滅したことは想像に難しくありません。全共闘はあの丸山眞男にも自己批判を迫ったのだから。槌屋は「コンピュータは、プログラムも、作品も、芸術も、我らの人生の意味も理解できない」「アーティストでも、エンジニアでもなく、ひとりの男になりたいと思います」といって辞めてゆきました。その後日本のエネルギー工学者として起業の道にすすみます。  


美術手帖1969年5月号増刊 特集:人間とテクノロジー 

「エレクトロマジカ69」のステッカーとカタログ (80x56cmのポスター)、「テクノロジーと芸術の歴史的展開」の付録付。本文の内容もとても充実している臨時増刊号。


銀座ソニービル (現・Ginza Sony Park) で開催された国際サイテックアート展「エレクトロマジカ 69」(1969年4月26日~5月25日)は、70年万博には不参加のソニーが前年に開催した国内初の大規模なメディア・アート展でした。CTGの参加がありますが同年11月には解体しました。


Cybernetic Serendipity  : The Computer and the Arts  Jasis Reichardt (Editor) 1968 UK

Various  - Cybernetic Serendipity Music  ICA 01  LP  1968  UK / Reissue : Vinyl factory VF129  LP  2014  UK

英国で1968年に開催されたコンピュータ・アート展「サイバネティック・セレンディピティ」カタログ本。展覧会の企画者ヤシャ・ラインハート(Jasia Reichardt/1933-) によってCTGも紹介されました。

レコードには、槌屋治紀の「ビット・ミュージック/抜粋」(Haruki Tsuchiya : Bit Music /excerpt) 所収。これは黎明期のコンピュータ・ミュージックの作品となりました。なんでもそうですが黎明期のものは野蛮で魅力があります。進歩と共にビット数も上がってゆくと徐々にソフィスティケートされ野蛮な魅力は跡形もなくなり生活に溶け込んでゆきます。コンピュータ・アートも同じ運命を辿ります。CTGが3年程で解体したのは先見の明ともいえます。

Morton Subotnick  "Touch"   CBS SONY SOCN 14003    LP  日本国内盤  1969

サンフランシスコ・テープ・ミュージックセンター(1961~66)をラモン・センダーと設立した、モートン・スボトニックのBuchla 100 によるアルバム。サンフランシスコ・テープ・ミュージック・センターなくして電子音楽とロックの出会いは叶いませんでした。

ジャケットのCGは、「サイバネティック・セレンディピティ」展にも出品されたCTG の作品:” Return to a square"/Idea by Masao Komura, Program by Kunio Yamanaka 。他のアーティストの表紙やジャケットでも使用された世界的に知られた作品です。他にクレジットなしの David Tudor "Microphone" のジャケット等CTGの作品になります。

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1960年代は、カウンター・カルチャーの出現が欧米や日本でも起こり、アメリカでは国の至るところで芸術的なコミュニティーや音楽の機関が、その出現に大きく影響された。それは特にサンフランシスコにおいて最も強く現れ、民間の音楽期間であるサンフランシスコ・テープ・ミュージック・センター(San Francisco Tape Music Center:1961~66) は、それまでの音楽文化に対する対抗文化としてセンターを定義し自らを位置ずけた。センターは、モートン・スボトニック (Morton Subotnick/1933-) とラモン・センダー (Ramon Sender/1934~) によって共同設立され、マンスリー・コンサートの企画や電子音楽の制作が可能なスタジオを運営した。ポーリン・オリヴェロス (Pauline Oliveros/1932-2016) とアンソニー・マーティン( Anthony Martin/) がディレクターを務め、スタジオの電子機材はドン・ブックラ (Don Buchla/1937-2016) によって制作された。このセンターの利用者にはテリー・ライリーをはじめ海外からもフォルケ・ラーベ他の音楽家が接触をもった。センターは66年、共同設立者ラモン・センダーの脱退に伴いミルズ大学へ移行しミルズ・テープ・センターとなった。その後、現代音楽センター(CCM=Center for Contemporary Music) として発展的に統合され、音楽の研究期間の主要なセンターの1つとして国際的な評価を達成した。しかし一方で設立当初の、ストリート性をも実現していた真に革新的な姿勢は崩れ、アカデミズムの世界へ後退したともいえる。ラモン・センダーは、66年1月に開催された「トリップ・フェスティバル」の主催者となりセンターを離れた。

(ヤン富田『ビート禅アーカイブ』2004 より転載。)


Ken Kesey - The Acid Test   Sound City    LP   1966  US

Ken Kesey - Can You Pass The Acid Test?  Vol.1   Intrepid Trips  CDr   1999

Ken Kesey - Acid Test Vol.2 San Francisco State 10/1/66  Intrepid Trips CDr 2000


ケン・キージー(1935-2001) は1962年発表の処女作「カッコーの巣の上で」によって作家としての名声を得た。それは60年に行われた、LSD投与による人体実験の被験者として働いた経験から描かれたものだった。キージーは、その本の印税によってサンフランシスコの南、ラ・ホンダに土地を購入しコミューンを形成した。大学教授やヘルス・エンジェルスといった様々な人達が訪れ、その仲間を中心にメリー・プランクスターズを結成した。64年にはニューヨークで開催される万国博覧会の見物も兼ね、スクール・バスを購入し、それを音響設備とペイントでサイケデリック・バスに仕立てアメリカ大陸横断の旅に出た。運転手をしたのは、ジャック・ケルアックの小説『路上にて』において主人公のモデルとなった、ニール・キャサディ(Neal Cassady/1926-1968) だった。このバスの旅は、後にビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」(1967) のアイデアの基となった。処女作「カッコーの巣の上で」は75年、ジャック・ニコルソン主演で映画化されアカデミー賞5部門を受賞した。アシッド・テストは、ケン・キージーによって65年に始められたLSD体験パーティーで、会場の入り口には「君はアシッド・テストにパスしたか?」と書かれていた。ニューヨークのティモシー・リアリー(Timothy Leary/1920-1996) は『チベットの死者の書』をバイブルとし儀式性をもっていたが、キージーとプランクスターズはSF的未来志向をもち、先端的なエレクトロニクスを導入し、演奏、ライト・ショー、ストロボ、映像、隠しマイクからの音声、テープ・ループ等々を用いたパーティーといった趣のものであった。アシッド・テストは評判を呼び規模は拡大された。(『ビート禅アーカイブ』2004 より転載。)


Key-Z Productions presents THE ACID TEST “Directors Cut”  VHS (Mid 90’s)

Ken Kesey - Intrepid Traveller And His Merry Band Of Pranksters Look For A Kool Place ―Episode One/Journey To The East  VHS (Mid.90’s)

1964年のアメリカ大陸横断バス・ツアーの記録映像集。右側のケースは印刷でなくキージー署名入りのサイケデリック・アートによる VHSのケース。


『クール・クールLSD交感テスト』トム・ウルフ著 飯田隆昭 訳 太陽社 1971

米国でベストセラーを記録したケン・キージーとメリー・プランクスターズのドキュメンタリー


50TH Anniversary ov LSD   Source Records 04  LP  1994  Germany

化学薬剤LSD-25 生誕50周年記念レコード。2018年には75周年記念盤も発売された。


1965年のアシッド・テストでケン・キージーと出会ったジェリー・ガルシア(Jerry Garcia/1942-1995) は、以降キージーのコミューン・バンドのメンバーとなった。ガルシアは65年に初めてLSD を体験し、それまでワーロックスとして活動していたバンド名をグレートフル・デッドと改名、同時に音楽性をも変化させた。そこにサイケデリック・ロックあるいはアシッド・ロックの誕生をみるが、電子音楽とサイケデリックとの出会いはそれよりも早い時期にあった。64年のサイケデリック・バスに取り付けられた音響設備はドン・ブックラによって制作されており、また当時の記録映像にはキージー他数名が数台のテープ・レコーダーを使ってテープ・コラージュをするシーンが確認できた。キージーは早くからサンフランシスコ・テープ・ミュージック・センターを利用していたと推察される。2000年に販売された[Acid Trip Vol.2] には、それまで未発表だった1966年1月のメリー・プランクスターズのライブ音源とアシッド・テスト用に制作されたと思われる20分程のテープ作品 "Musical Interlude~Space Flight~Space Jam" が収録されていた。これは心拍音のテープ・ループ上に様々な音源を配したもので、サイケデリックと電子音楽の関係を示す実例として、また当時の様子を窺い知る上でも貴重な記録といえる。知覚の旅をテーマにしたと想像できる内容で、ミックスされる音源は、サーフ・インストによる宇宙サウンドからラ・モンテ・ヤングのルーツに当たる北インドの古典音楽にわたり、その間を電子音、環境音、アヴァンギャルドなピアノ演奏等が埋めるといった構成となっている。(ビート禅アーカイブ』2004 より転載。)


アシッド・テスト用に使用されたレコード

J.B.Barlow & W.A.Pocock- Auscultation Of The Heart   London5873W  LP  1962  US


『心臓の聴診』と題された、様々なパターンの心拍音とその際の身体の状態を解説した学習研究レコード。




The Trips Festival Movie   DVD   2007  US

拡張シネマ、実験映像作家のベン・ヴァン・ミーター(Ben Van Meter/1941-)監督によるトリップ・フェスティバルのドキュメント映像から8分程が収録されたDVD。当時の参加者の40年後の座談会中心の内容。


Rebirth Of A Nation : Ex-Spirit-Mental Cinema Of The Sixties By Ben Vanmeter ©1964/2008  DVD  ベン・ヴァン・ミーター監督の60年代に制作した作品集。短編を含む全9作品収録。トリップ・フェスティバルからは「アシッド・マントラ/Acid Mantra」所収。これには50分間にわたる会場からの映像および音響にブックラ100システムのシークエンスが流れ続ける。DVDは流通には乗せず短期間本人から直接購入する販売方法だった。


1966年、歴史的な一大イベントとなった「トリップ・フェスティバル」がサンフランシスコのロングショア・メンズ・ホールで1月21~23日の3日間にわたって開催された。これは数千人を動員した驚異的な催しとなった。フェスティバルの主催者は、(ケン・キージーの他に)メリー・ブランクスターズの一員、スチュワート・ブランドとサンフランシスコ・テープ・ミュージック・センターのラモン・センダーだった。音響とライト・ショーはドン・ブックラが担当した。出演者は、ケン・キージーとメリープランクスターズ、ヘンリー・ジェイコブス、ポーリン・オリヴェロス、グレートフル・デッド、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、ルー・ハリソン他の音楽家およびロック・バンド、IBMによるライト・マトリックスのゴードン・アシュビー、アンダーグランド映画作家ブルース・コナー(イラスト)、その他、ホピ族のネイティブ・アメリカン、アン・ハルプリン舞踏団、中国ライオン舞踏団等、他多数の芸術家、デザイナーを含む多彩な面々によって編成された。それは先端的なエレクトロニクスと科学、ビートからヒッピーへと受け継がれたプリミティブな価値観、それら両極が交錯した一大フェスティバルとなった。

(ヤン富田『ビート禅アーカイブ』2004 より転載。)


Analog Days - Trevor Pinch and Frank Trocco   Harvard University Press  2002より

画像右:トリップ・フェスティバルをラモン・センダーと主催した、スチュワート・ブランド。この後 ”WHOLE EARTH CATALOG”  を出版する。  右:ドン・ブックラ、奥に見える機材は BUCHLA 100 モデル。


Analog Days - Trevor Pinch and Frank Trocco   Harvard University Press  2002より


Dr. Yann at Columbia-Princeton University Electronic Music Studio in New York, 1996






















画像はヤン富田、1996年プリンストン大学電子音楽スタジオ内に於けるショット。対面する赤のモジュール (Red Panel) は、1960年代中期、塗料に化学薬剤 LSD を含ませた伝説のBuchlaモジュールです。当時、創造のためのインスピレーションを得るために奏者はそれを舐めながら演奏しました。1973年に開発された BUCHLA MUSIC EASEL のマニュアル・タイトル"Programing and Meta-Programing The Electro Organism” は、脳科学者 ジョン・C・リリー(John Cunningham Lilly/1915-2001) の著作 “Programming and Metaprogramming in the Human Biocomputer” (邦題:「バイオコンピューターとLSD」)に由来します。ジョン・C・リリー は最初期のAcid研究者で、LSDが非合法になった後も、米国政府にAcid研究を続けることを許された数少ない科学者の一人でした。



画像は2008年納品直後の私の Buchla 200e Systemです。2007年春の納期が、222eモジュールの設計変更やデジタル・オシレーター259eのバグ調整の不備による発売中止などで11ヶ月遅れました。納品直前にはケースの木枠の木材をシマウマ模様のゼブラ・ウッドに特注したことから更に2ヶ月かかりました。先端技術が盛り込まれたカリフォルニアの最新デジアナ・システムに、西アフリカの熱帯雨林を原産地とする木材が組み込まれて、プリミティブと先端技術が交錯して良いなと思ったのです。


Don Buchla の最終モデルとなった200eシステムは、2005年にバグ込みで販売開始されました。 購入者は200eユーザーグループ (当時20~30人だった)に入ってバグを報告し、ブックラさん以下スタッフが誠心誠意事に当たるという仕組みでした。当時は息子のエズラ (Ezra Buchla/1981-) もスタッフに居て、とても冴えた対応で、何度も何度もモジュールが海を渡って行ったり来たりしました。注文して届いての2年間というものは、禅の修行のような日々でした。

Compression Of The Chest Cavity Miracle - Gubbish  Dolor Del Estamago Cdr

Compression Of The Chest Cavity Miracle - Fleetingly Improvised Persons  Dolor Del Estamago

Ezra Buchla - Untitled  Deathbomb Arc DBA89  Cassett  2008  US

ドン・ブックラの息子エズラと、サージ・モジュラー・システムの開発者サージ・チェレプニン(Serge Tcherepnin/1941-) の息子ステファン(Stefan Tcherepnin/1977-) は、一時期グループを一緒に組んでバンド活動をしていました。音源は残していないようです。画像の作品はエズラのソロ・プロジェクトです。200eシステムの音の断片が調性を超えて炸裂し、ブックラの使い手本来の言わばカリフォルニア・スタイルとでも言えそうな演奏です。これは厳密にはノイズとは一線を画すものと考えています。このスタイルのことをいつか紹介します。ちなみにブックラの下で働いていたスザンヌ・シアニ(Suzanne Ciani/1946-)の音楽はこの例に属しません。

スザンヌ・シアニはブックラのもとを離れ、70年代中期にはシンセのオペレーターとしてスタジオ・ミュージシャンをしていました。ピンボール・ゲームのサウンド・プログラムや、瓶の蓋をスポンと抜いてドクドクと泡が飛ぶサウンドをBuchla 200で制作していました。そのコーラのCMは評判を呼び評価を得ることとなりました。

Don Buchla (1937- 2016)  70年代中期のポートレイト

カリフォルニア大学バークレイ校で宇宙生物学を学び、卒業後NASAやFBIで働き、1963年 Buchla100モジュラー・システムを制作しました。時を同じく東海岸ではモーグ・シンセサイザーが開発されて、モーグは鍵盤楽器でしたが、ブックラには鍵盤がなく、調性にとらわれない自由で広大な音楽領域を目指す楽器でした。

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世界初のコイン式コンピュータ・アーケード・ゲーム「コンピュータ・スペース」1971

翌年アタリを創業するノーラン・ブッシュネル (Nolan Bushnell/1943-) によって制作された。

ユタ大学工学部の学生でプログラミングを学んだノーラン・ブッシュネルは、研究室で「スペースウォー!」の魅力を知り、それを遊園地に設置することを考えました。しかし1台12万ドルかかることがわかり断念。1965年、ユタ大学を卒業したブッシュネルは、世界初のテープレコーダー会社であるアンペックスに就職します。70年、電子部品の値段が安価になったので自宅で「スペースウォー!」のアーケードゲーム版「コンピュータ・スペース」の開発に取り掛かります。71年11月、世界初のコイン式コンピュータ・アーケード・ゲーム「コンピュータ・スペース」は、1500台製作され販売するも、操作が難しく人気が出ず数10台の売り上げにとどまりました。72年ブッシュネルはAtari Computersを創立します。従業員に後のアップルコンピュータの創立者スティーブ・ジョブス (Steve Jobs/1955-2011) がいました。



映画『ソイレント・グリーン/Soylent Green(1973)』に登場したコンピュータ・スペース実機。

DVD ワーナーホームビデオDL-50070

Asteroids   Kid Stuff KSS 5032  LP  1982  US   Atari Missile Command   Kid Stuff KSS 5031  LP  1982  US

アタリのアーケード・ゲーム、「アステロイド」は「スペースウォー!」から派生したプログラム。「ミサイル・コマンド」他、沢山のタイトルがパーソナル・コンピュータやゲーム機に移植されヒットしレコード化もされました。


1977年にシネマトロニクス社よりリリースされたアーケードゲーム機。1962年の「スペースウォー!」に基づくプログラム。ハイパースペース・ボタンが付いている。ATM の様なデザイン。

ゲーセン・ファンクの最高傑作。ワシントンDCのGO-GOにエレクトロニック・サウンドが絡む。

イントロにアーケード・ゲーム から ”Ms.Pacman” 使用。


パソコン創世第3の神話 ジョン・マルコフ著 服部桂 訳  NTT出版  2007

33人のサイバーエリート ジョン・ブロックマン著 椋田 直子訳 アスキー出版局  1998

60年代後半のカリフォルニアを中心としたカウンターカルチャー:ビート、サイケデリック、ヒッピー、それらに通底した東洋思想、そして禅が、パーソナルコンピュータの誕生に密接に関係があったことが描かれています。翻訳文中でリチャード・アルパート(Richard Alpert/1931-2019) とラム・ダス(Ram Dass) が同一人物であるということを知らずに紹介されていました。アルパートは、LSD-25の研究からインドでヨガを学び、名前をラム・ダスと改名しヒッピーとなります。74年には全米でベストセラーとなる「ビー・ヒア・ナウ」を出版したカウンターカルチャーの重要人物です。ティモシー・リアリーとは同僚で、60年代前半にLSDの研究をリアリーと学内で始めた頃はハーバード大学心理学教授でした。


16歳でハーバード大学に入学し、25歳でカリフォルニア大学バークレイ校で開学以来最年少の数学助教授となった、ユナボマーことセオドア・カジンスキー(Theodore Kaczynski/1942-) の物語。


一九九五年マスコミ各社へ送った、英語で35000語の論文『産業社会とその未来』は、一九九五年九月、「ニューヨーク・タイムス」と「ワシントン・ポスト」紙が共同掲載しました。


以下、カバー見返しより抜粋。

「産業革命とその後の社会の進展は、人類に災害をもたらすものであった。これによって人類の平均寿命、ことに「先進国」のそれは飛躍的に延びたのであるが、その一方で、社会に動揺を、人生に飽くことなき渇望を、人間に屈辱をもたらし、心理的苦痛を(第3世界に対しては肉体的苦痛をも)まき散らし、しかも自然界に多大な損害を及ぼした。技術の絶えざる進歩は、事態を悪化させるばかりである...。

我々はそれゆえ、産業システムにこうして革命を起こさなければならない。この革命に暴力を行使する余地はあるかもしれないし、ないかもしれない。性急に肩をつけられるかもしれない。数十年の年月をかけて緩やかに達成されるかもしれない…これは政治革命では断じてない、目的とするのは政府の転覆ではなく、現代社会の経済的・技術的基盤を転覆せしめることである…」


見返しより抜粋。

近年の犯罪史上で最大のお尋ね者と呼ばれたユナボマー。彼は十八年間ものあいだ政府機関から巧みに逃れ、対FBIと最長の捕りもの劇を繰り広げた。一九九六年の四月三日、FBIの捜査官たちは、モンタナ州にあるベニヤ板の小屋を取り囲んだ。そして世間は初めて、ユナボマーと呼ばれた犯人の容疑者、セオドア・カジンスキ~の素顔を見ることになった。本書は、『タイム誌』のジャーナリスト・チームが、彼の悲惨な過去、狩る者と狩られる者のゲーム...



『THE NET, The Unabomber, LSD and The Internet』 

   Witten and Directed by Litz Dammbeck   OTHER CINEMA   DVD 2006 US (ルッツ・ダムベック監督作品/Lutz Dammbeck/1948-)


1996年、FBIはアメリカの国内テロリストであり、元数学教授でアナキストの作家であるテッド・カジンスキーを逮捕しました。カジンスキーは世界のテクノロジー化の進展と闘っていると理解していました。20世紀半ばには、サイバネティックスやシステム理論、マルチメディアアート、新しい心理学の概念、軍事研究など、多くの思想家のネットワークと知的発展が前面に出てきて、それはコミュニケーションや大衆行動に影響を与えコントロールすることに関連してきます。1980年代のインターネットの発展とともに情報技術の無限の発展は人間社会に何をもたらすのか?、という疑問が生じます。 


この刺激的なドキュメンタリーは、第二次世界大戦後のトレンドと現代技術がどのように人々の心に影響を与え、現実を仮想現実に置き換える可能性があるかを探っています。リッツ・ダムベック監督とセオドア・カジンスキーとの間で交わされた手紙の抜粋と、ニューヨークの編集者ジョン・ブロックマン、アメリカの作家で「ホール・アース・カタログ」のスチュワード・ブランドなど、アメリカの代表的な目撃者へのインタビューを織り交ぜています。ユナボマーの物語は、グローバルな仮想世界の中で個人のアイデンティティがどのように消滅するかという極端なケースとして提示されています。

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左:ARCADE FIELD RECORDINGS  “LOS ANGELS ARCADES 09/BRIAN DEGRAW REMIX”  OLIVER PAYNE  Gary Goes To Space -001 LP, Limited Edition  2010   US

ロスアンゼルスにあるゲームセンターのサウンドを収録したレコード。


右:田名網敬一 (Keiichi Tanaami/1936-) 、オリバー・ペイン (Oliver Payne/1977-) :パーフェクト・チェリー・ブロッサム (Perfect Cherry Blossom) Patrick Frey Edition  2018


2017年にロスアンゼルスで開催された二人のコラボレーション展に新作を組み合わせて、2018年3月に開催されたギャラリー「ナンヅカ」での展覧会図録。


図録より


60年代より日本のポップアート・アーティスト、田名網の像形と、シューティング・ゲームの弾幕をサンプルとしてコラージュしたオリバーとのコラボレーション。

「首領蜂」(どんぱち)の弾幕の数を多くした、続編の怒首領蜂(どどんぱち)で弾幕系ゲームが確立されたと言われています。弾幕系シューティング・ゲームはサイケデリックなゲームのジャンルといえます。

スケシン (スケートシング/SKATE THING)、トビー・フェルトウェル (Toby Feltwell) のブランド、C.E (Cav Empt) からは Tシャツが発売されました。(2018)

オリバーは Mo Wax 周辺にもいたのでスケシンくんとトビーはおそらく既知の仲


第10回アシッドテスト:2016.12.10 より

C.E (Cav Empt) のキャップとアウターを着用。ロボ宙に「滅茶苦茶カッコいい」って褒められて嬉しかった、アハハ。

手に持つのは「超音波変換器」超音波を人間の可聴域にトランスポーズする機能を持った装置。これをアンプに繋いで出力するとすごいことになる。手前は「空間光線探査砲」光の光量を可聴化するブラスター。すべて「スペース・ウォー!」

                               

[超音波の可聴化]より [生活空間における機器のリーダーといずれ始まる機械同士の会話]

『建築空間に於ける超音波の動向:叫ぶ蛍光灯』

   ヤン富田:超音波変換器及び建築空間:トーキョーカルチャート by BEAMS ギャラリー


人間の一般的な可聴域は、20Hz~20KHz です。これを超える高い振動数を持つ超音波は、人間の耳には聞こえません。ここでの試みは、超音波を人間の可聴域にトランスポーズする変換器を用いて、超音波は実際どんな音を発しているのか? またその超音波を発する機器の動向を探ります。生活空間には様々な機器のON/OFF時に超音波が発せられています。そこには人間と機械の関係性の中で実は従順とは言えないような響きを発するものがあるのです。他にもコンピュータとモニター、特に冷蔵庫から発せられる超音波は他を圧倒する轟音を発し続け生活空間を支配しているかのようです。これら様々な超音波に囲まれた現代では、人間が気づいていないだけで、もはや機器同士の会話は進行しているのです。



(ヤン富田:第9回アシッドテスト『意識の拡大による建築空間とサウンドの設計 パート 2』  

 :2016.11.2 より再掲)→  http://asl-report.blogspot.com/2016/11/2_28.html 


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高木完 (Kan Takagi/1961-) ちゃんがパーソナリティーを務める音楽番組、 J-WAVE「TOKYO M.A.A.D SPIN」の記念すべき第1回 (4/7)と2回目 (4/14/2020) 放送のゲストに呼ばれて、おしゃべりして番組用に制作した60分のMIXも披露しました。MIXのタイトルは「スペースウォー!」です。2020年春から東京藝大大学院でゲームを学問として研究する学科が新設されるそうで、スペースウォー!がウィルスとの戦いをも暗示していたかのように、世の流れと私の世界観とが交錯したことからこの内容としました。




ヤン富田 MIX : SPACEWAR ! 


0:00       1.   Daddie Ho And The Hodaddies - Surfing Is My Life (edit) 

                   Taken from album Jack Marshall “My Son The Surf Nut” 

1:22       2.   Yann Tomita - Astro Freaks (excerpt) 

                   Taken from album “Music For Asro Age”  

3:03       3.   Oliver Payne - Arcade Sound #1

4:20       4.   A.S.L. Archives - Arcade Sound plus HMSL 

8:07       5.   Seiko Ito & Yann Tomita - Suite Of Tokyo Bronx : Part 2, 3

14:03     6.   B+ - B-Beat Classic (edit)

18:10     7.   Dr. Yann’s Beat Classics for Seiko Ito’s MESS/AGE - Happy Syndrome

22:35     8.   A.S.L. Archives - Arcade Sound #3 

24:29     9.   Seiko Ito & Yann Tomita - Suite Of Tokyo Bronx : Part 4

26:37    10.  Ake Hodell - Structures III (excerpt Part 5, 6)

27:52    11.  Kenny Rankin - A House Of Gold

30:56    12.  A.S.L. Archives - Dr. Yann’s Beat Classics

32:10    13.  Pardon Kimura - Wave Is Life (excerpt, edit)

                   Taken from album “Locals”  

36:16    14.  Seiko Ito & Yann Tomita - Suite Of Tokyo Bronx : Part 2 (reprise, excerpt)

37:22    15.  Pauline Oliveros - Mewsack (excerpt, edit)

46:01    16.  A.S.L. Archives : Seiko Ito & Yann Tomita - Suite Of Tokyo Bronx : Part 5 (unreleased)

53:54    17.  Yann Tomita - From Banzai Pipeline To Brainwave:Surf Report Test Record #1


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9月24日(金)BLUE NOTE 東京に於ける『ヤン富田:A.S.L. REPORT -  "SPACEWAR !"』公演を記念して、A.S.L.謹製の新作Tシャツとキャップ。80年代カリフォルニアのゲーセンファッションがヒントです。これにスケボーソックスとショーツ(丈の短いやつ)を合わせればモテると思います! 

9月24日(金))ブルーノート東京にて先行発売いたします。(9月24日公演開催時のみ)

その後、10月上旬よりBEAMS JAPAN 4階「トーキョーカルチャート by ビームス」にて販売予定です。

お問い合わせ:03-5368-7300 (営業時間 午前11時 - 午後8時)


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